ウサギが大好きな、そしてビートルズをこよなく愛するミッドナイト・トラッカー、paulkoba のブログに     ようこそいらっしゃい♪


by paulkoba
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カテゴリ:ビートルズ画( 19 )

LET IT BE (レット・イット・ビー)
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ブライアン・エプスタインの死後、ビートルズのマネージャー的存在はポールが務め、同時に活動の方向を定めていたのも彼であった。コンサートを停止して2年後の1968年当時、ポールは再びステージ活動に入ることを望んでいたが、ジョンとジョージはこれに反対していた。ポールはこの時、新曲をライヴ盤で発売するアイデアも持っていたのだが、結局この案も不可能になったわけである。その代わりに作られたのが映画 「レット・イット・ビー」 であり、同名のアルバムである。
「サージェント・ペパーズ~」 を発表して以来、メンバーは日増しに離れ離れになっていったが、ポールはここでビートルズの出直しを決意し、とりあえず残るメンバーも集まり、セッションは1969年の1月に始まった。セッションの様子は映画のためにすべてフィルムに収め、演奏もサウンド・トラック用に録音、再出発すなわち原点に戻るという意味からアルバム・タイトルは 「ゲット・バック」 とし、オーバーダビングは一切しないということで話はまとまった。そこでジョージ・マーティンはサウンドが音の薄くなるのを心配し、ボーカル用のマイクは各メンバーに2本ずつ配し、キーボード・プレイヤーを加えることを提案した。セッションで呼ばれたのはビリー・プレストンである。
要するにこのアルバムは、デビュー・アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」 のスタイルに戻るはずであり、ジャケットもデビュー・アルバム同様EMI 本社のビルで、同じアングルからとられた。
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ところがメンバーにかつての緊張感はなく、セッションはダラダラと続くだけ。さらに慣れない映画スタジオでの演奏、設備不十分のアップルのスタジオということもあり最悪の状態となってしまった。グループを何とかまとめようとするポールの姿も、かえってメンバーの反発を買ったのである。そうした状況が1ヶ月続き、最終的にはほとんど使いものにならないテイクが200曲にも及んだ。この中にはハンブルグ時代の曲から新曲まで含まれていたわけだが、ぶっつけ本番のジャム・セッションと言えば聞こえは良いが、要は満足なリハーサルもなかったのである。
それでもジョージ・マーティンは選曲と編集をし、ニュー・アルバムはDJコピーまで作られたのだが、結局は発売中止となってしまった。その後、誰もこのマスターテープには手をつけたがらなかったのだが、かねてからビートルズのプロデュースを夢見ていたフィル・スペクターに、ジョンはテストの意味で再プロデュースを依頼した。
フィル・スペクターはまず、マスターテープから使用可能な曲を10曲選び編集を開始したのだ。「ディッグ・ア・ポニー」 はイントロ後の1小節をカット、「ディッグ・イット」 は前後のパートを大幅カット、「レット・イット・ビー」 ではリフレインを加え、リード・ギターを差し替え、「ゲット・バック」 でもコーダを大幅にカットしたのである。特に手を加えたのは 「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」 で、中間部のポールの語りをカットし、オーケストラと女性コーラスを加えたのだった。そして曲数合わせのために、「アクロス・ザ・ユニバース」 と 「アイ・ミー・マイン」 がリフレインを増やして加えられた。
一応完成したアルバムはポールの構想とは全くかけ離れたものとなり、彼は激怒するがEMI との契約上、アルバムはリリースしなければならなかったのである。ただしリリースにあたって、シングルの 「ゲット・バック」 から1年以上も経っての発売となったため、アルバム・タイトルは 「レット・イット・ビー」 に変更、ジャケットも差し替えられた。このような複雑な背景を背負ったアルバムであるが、paulkoba の一番お気に入りのアルバムでり、作品を取り上げればやはり名作ぞろいで、イギリスでは8週、アメリカでも4週、首位にランクされたのである。
(英国発売1970年5月8日/日本発売1970年6月5日)
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by paulkoba | 2006-07-10 00:23 | ビートルズ画
ABBEY ROAD (アビー・ロード)
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ビートルズの実質的なラスト・アルバムであると同時に、最高傑作、最高のセールスを記録した。タイトルが示すように、「レット・イット・ビー」 のセッションで使用したアップルのスタジオから、古巣のアビー・ロードにあるEMI に戻ってのレコーディングにもなった。この時期の4人はレコーディング以外は顔を合わせることもないバラバラな生活を送っていたが、そんな危機感はサウンドには全く見当たらない。
このアルバムも基本的にはポールの主導で作られているが、彼は悲惨な結果に終わった 「レット・イット・ビー」 のセッションを悔い、もう一度かつてのようにビートルズが4人そろってきちんとしたレコーディングがしたいと、ジョージ・マーティンを訪れた。その気持ちは残る3人も同じだったようで、1969年7月に集中的にセッションは行われ、その後ジョージ・マーティンによってオーケストラのパートがダビングされたのである。
このアルバムは飛躍的に音質が向上しているが、それは16トラックのレコーダーが導入されたためである。そして当時未来の楽器と称されていたシンセサイザーを、ビートルズはいち早くレコーディングに使用した。もちろん現在のシンセサイザーの性能とは比較にならないが、とにかく大きなユニットをスタジオに持ち込み、ポールが大いに興味を示した。
ビートルズ自身、このアルバムが実質的な最後のアルバムになると予知していたかどうかは定かではないが、収録曲はどれも完成された作品ばかりである。アレンジに関してもかつてのビートルズのごとく、緻密な計算がされ、一曲ごとに何らかの楽器が作品を引き締めている。「カム・トゥゲザー」 ではイントロのハイハットの音が印象的であり、「サムシング」 ではバックのキーボードが、作品をソフトなタッチに包み込んだ。「マックスウェルズ・シルバー・ハンマー」 ではシンセサイザー、「ヒア・カムズ・ザ・サン」 のアコースティック・ギター、「アイ・ウォント・ユー」 でのベース・ラインなどひとつの楽器を際立たせることにより、アルバム全体が非常にバリエーションに富んだ形となったのである。
そして注目すべきはジョージの存在だ。彼はデビュー以来、アルバム収録曲中2曲を与えられていたのであるが、ジョンとポールという偉大なるメロディー・メーカーのお陰で、作品自体が話題になることはほとんどなかった。しかし、「アビー・ロード」 でとうとう、ジョンとポールと肩を並べるに至った。このアルバムから唯一シングル・カットされたのは、「カム・トゥゲザー」 と 「サムシング」 のカップリングであるが、このシングルはビートルズ史上初めて、ジョージのオリジナル作品、つまり 「サムシング」 をA面とした。残る1曲 「ヒア・カムズ・ザ・サン」 も、ギターワークとあいまって出色の出来であり、リンゴの作品 「オクトパス・ガーデン」 のアレンジを担当したのもジョージである。
一方ジョンは 「アイ・ウォント・ユー」 「ビコーズ」 のように歌詞の簡素化が目に付き始めた。これはおそらくヨーコ・オノの影響であると思われる。解散後に発表した 「ジョンの魂」 で俳句に興味を示し、シンプルな詞を書いているが、すでにジョンは、日本文化を学んでいたようだ。
ところでこのアルバムのハイライトは、それまで誰もが考えようともしなかったメドレーである。ポールのアイデアであるこのメドレーは、未完成であった作品をあたかもひとつの曲であるかのように編集がされ、その結果、アルバムの最後ではシンフォニーのような盛り上がりを見せた。特に 「ジ・エンド」 における構成は、リンゴのドラム・ソロに入り3人の個性が発揮されているギター・ソロが聴ける。いかにもビートルズらしいアルバムのエンディングであった。
イギリスで19週間、アメリカで11週間トップにランクされた。
「アビー・ロード」 は、発売後3年間で全世界において900万枚を売り上げた。
(英国発売1969年9月26日/日本発売1969年10月21日)
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by paulkoba | 2006-07-09 18:20 | ビートルズ画
YELLOW SUBMARINE (イエロー・サブマリン)
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ビートルズのキャラクターを使った同名アニメーションのサウンド・トラック盤。当初、アニメーションには興味を示さなかったビートルズであるが、仕上がりを見て気に入ったと言われている。ただし、当初興味を示さなかったことが災いし、ビートルズの新曲は4曲のみで、他は全て映画の音楽監督担当のジョージ・マーティンによるオーケストラの演奏が収められている。
アルバム・タイトル名は、「リボルバー」 に収められていた作品であるが、サウンド・エフェクトはビートルズとそのスタッフによるもので、波の音はリンゴがバケツの水を上下させて作り出した。ジョージとロードマネージャーのマル・エバンスは、牛乳ビンに水を入れストローで強く息を吹き込み、泡の音を作った。ジョンの声はイコライザーで処理をし、無線の声に仕立てたのである。コンサート・ツアーを停止したことにより、ビートルズはレコーディングにおいて、エフェクト作りにまで時間を費やすことができたのである。
4曲の新曲に関しては、それほど重要な位置を占める作品はないが、実際に映画で使用されなかった 「ヘイ・ブルドッグ」 は、一聴の価値がある。中間部のギター・ソロはポールのプレイによるものだ。「リボルバー」 以降、メロディー・メイカーとしても、プレイヤーとしてもポールはビートルズの軸になった感じさえする。ジョージの 「イッツ・オール・トゥ・マッチ」 は神秘的で、当時インドをはじめ東洋の哲学に深くのめり込んでいたことがよくわかる。
内容的にはほかのアルバムと比べるべくもないのだが、それでもセールスはイギリスで4週間4位をキープし、アメリカでは 「ホワイト・アルバム」 が1位に立っていた時点で2位まで上昇した。
(英国発売1969年1月17日/日本発売1969年3月21日)
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by paulkoba | 2006-07-02 18:02 | ビートルズ画
MAGICAL MYSTERY TOUR (マジカル・ミステリー・ツアー)
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イギリスではEP2枚組で、ビートルズ制作・主演のテレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」 のサウンド・トラックとして、一方アメリカではサウンド・トラックにそれまでアルバム未収録であったシングル・ヒット5曲を加え、アルバムで発売された。つまり、元はこのアルバムはアメリカ編集アルバムである。しかし、出来が良かった為世界統一アルバム (イギリス・オリジナル) に加えられ、現在に至っている。
マネージャーのブライアン・エプスタインの死後、ポールは音楽のみでなく、グループのリーダー的存在となり、同時にスポークスマンの仕事まで精力的に働き始めた。テレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」 はそうしたポールのアイディアと指示のもとに作られたが、映像に関しては素人同然であったために失敗、ビートルズはデビュー以来初めて酷評を受ける羽目となった。
しかしながら、サウンド・トラックとしての音楽性だけを取ってみると、「サージェント・ペパーズ~」 の流れをくみ、センスの良い作品が並んでいる。さすがにサウンド・トラックという性質上、「サージェント・ペパーズ~」 のように凝りに凝った作りはされてはいないが、いずれの作品を例えば「サージェント・ペパーズ~」 の一曲と入れ替えをしても、違和感はないはずである。ポールの作品である 「フール・オン・ザ・ヒル」 「ユア・マザー・シュッド・ノウ」 「ペニー・レイン」 は十分に計算された美しさがあり、対するジョンは 「アイ・アム・ザ・ウォルラス」 「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」 で、不思議な雰囲気のロックに挑戦した。特に 「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」 では、ビートルズ4人の演奏バージョンにストリングス・バージョンを完璧につなぎ合せるという複雑な作業をしている。3度目の ”Let me take You down 'cause I'm going to” の、I'm と going の間で編集がされているのだが、ジョージ・マーティンはここでもビートルズに大変な貢献をしている。 また、ポップソングの極め付きとも言うべき 「ハロー・グッドバイ」 でも、単に、覚えやすい歌詞、メロディだけに終わることなく波紋状に広がるような、エコー処理がなされている。これはおそらくテープ操作によるエコーであろうが、スタジオをビートルズとそのスタッフは完全に使いこなせることになった証しであろうか。^ ^
「サージェント・ペパーズ~」 での緊迫感が、このアルバムでは余裕すら感じられるようになった。
(米国発売1967年11月27日/日本発売1968年12月5日)
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by paulkoba | 2006-07-01 23:33 | ビートルズ画

CONCERT

ビートルズは初期のコンサートを除くと、コンサートでの曲順、曲紹介のコメントなど完全にパッケージされたものであり、66年8月に行われたアメリカ・ツアーまで、たった4タイプのソング・オーダーしかない。
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-1964年
1. Twst & Shout 2. You Can't Do That 3. All My Loving 4. She Loves You 5. Things We Said Today 6. Roll Over Beethoven 7. Can't Buy Me Love 8. If I Fell 9. I Want To Hold Your Hand 10. Boys 11. A Hard Day's Night 12. Long Tall Sally
-1965年前半
1. Twist & Shout 2. She's A Woman 3. I'm A Loser 4. Can't Buy Me Love 5. Baby's In Black 6. I Wanna Be Your Man 7. A Hard Day's Night 8. Everybody's Trying To Be My Baby 9. Rock'n Roll Music 10. I Feel Fine 11. Ticket To Ride 12. Long Tall Sally
-1965年後半
1. Twist & Shout 2. She's A Woman 3. I Feel Fine 4. Dizzy Miss Lizzy 5. Ticket To Ride 6. Everybody's Trying To Be My Baby 7. Can't Buy Me Love 8. Baby's In Black 9. I Wanna Be Your Man 10. A Hard Day's Night 11. Help! 12. I'm Down
-1966年
1. Rock'n Roll Music 2. She's A Woman 3. If I Needed Someone 4. Day Tripper 5. Baby's In Black 6. I Feel Fine 7. Yesterday 8. I Wanna Be Your Man 9. Nowhere Man 10. Paperback Writer 11. I'm Down
以上のような具合で、厳密に言うならば若干曲目、曲順の変更もあったが、これがスタンダードなビートルズのコンサートである。
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今ではとても信じられないのだが、コンサートはわずか35分から40分。ビートルズが登場する前には、前座のグループがいくつも現れるのが常であった。
そしてビートルズが登場すると、オープニングはジョンの担当、途中ジョージとリンゴが1曲づつ歌い、エンディングはポールがシャウトする曲で締めくくった。11曲ないし12曲、つまりLPサイズと同じ曲数を消化するとビートルズはステージを去り、ただの1度もアンコールには応じなかった。一説によると、ビートルマニアよりも早く会場を抜け出し、混乱を避けるための手段として、アンコールをしなかったと言われている。
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コンサートで使用した楽器は、その当時レコーディングで用いた楽器とほぼ同じである。すなわち、1964年はジョージがリッケンバッカーの12弦、1965年前半ではジョンがギブソンJ160Eを使い、ハーモニカも吹き、1965年後半では、「I'm Down」 でジョンがギターではなく、Vox のオルガンをプレイしている。1966年になると、ジョンとジョージはエピフォンのカジノを持ってステージに上がった。
それにしてもライヴではジョンとポールの性格の違いがハッキリと分かれた。ジョンは訳の分からぬ言葉を口走り、歌詞に関しても自ら作った曲のはずなのに実によく間違えていた。片やポールは客席に向かって問いかけ、手拍子を促し、熱心にプレイした。もちろん、歌詞など間違えるはずがなかった。そして、これは単なる偶然にちがいないが、ジョン、ポール、ジョージはいずれも身長が178センチである。ステージに立った三人はバランスがとれヴォーカル用に立てた2本のマイクに代わる代わる三人が歩み寄る姿は、ほかのグループには見られない絵になる瞬間だったのだ。^ ^
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by paulkoba | 2006-06-26 00:20 | ビートルズ画

BEATLES FASHION

PART4
60年代の終焉
「ホワイト・アルバム」 でビートルズというグループの存在が薄れ、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴのパーソナル・グループの傾向が強くなったと同時に、このころになると文化の象徴としてのビートルズもいなくなってしまった。
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1969年にジョンとポールが結婚し、愛と平和のメッセージは外に向かってと同時にヨーコとリンダに捧げられるようになっていった。ジョージは東洋に魅せられインドに渡った。リンゴは役者への立場を築き始めた。ビートルズとしての影響力は形として見えなくなりつつあったのである。
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ただひとつハッキリと言えることは、マッシュルーム・カットで始まったビートルズのファッションから、愛と平和を唱えるメッセージまで、常に若者のリーダーシップを握っていたことである。
ビートルズ・エイジと呼ばれるのは、世界各国のベビーブーム世代であった。だからこそ、プレスリー・エイジよりも世界を大きく動かすことが可能となったのは明白である。
思えば60年代はそれほど平和ではなかったし、若者にとっても今ほど恵まれた時代ではなかった。ロックは不良の代名詞であり、長髪は異端児の扱いをされた。社会全体が大人で支配され、常識は大人によって作られた。だからこそ全世界で学生運動が広がり、若者の意識改革が叫ばれたのである。
ビートルズの登場は、そうしたタイミングにピッタリと合ったのだ。そしてビートルズによって、ファッションから思想、文化に至るまで若者は次々に市民権を得ていった。
「60年代はパーティーの時代、70年代はみんなが家に帰って行った」 と言われるが、確かに大人たちと闘った賑やかな時代は60年代で終わった。ベビーブーム世代も大学を卒業する年に達した。
ビートルズはまた、解散のタイミングも心得ていたかのようである。
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by paulkoba | 2006-06-25 02:16 | ビートルズ画

BEATLES FASHION

PART3
ヒッピー族とビートルズ
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「サージェント・ペパーズ~」 のアルバム・ジャケットは衝撃的であった。過去のビートルズを墓に葬るという意味が込められたものであるが、そこに立つ4人はヒゲを生やした立派な大人のビートルズであった。もうアイドルとしてのビートルズの面影は、音楽同様ファッションからも消えていた。
代わって4人は文化の象徴になったのである。彼らの発言、習慣、ファッションはテレビが宇宙衛星同時中継時代に突入したこともあり世界中に波及した。
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それまでのミュージシャンでは考えられなかったことだが、彼らはベトナム戦争についても発言した。これはおそらくボブ・ディランのメッセージ・フォークの影響もあるが、つい1年前までアイドルだったグループが、「愛と平和」 について語り始めたことは驚きであった。
そしてさらにショッキングな出来事は、ドラッグの使用である。ビートルズは最初のドイツ巡業からクスリに手を出していたが、これは体力の消耗に対する強精剤的な目的で、今回は明らかに目的が違っていた。いわば精神の高揚と幻覚作用を楽しむためにドラッグを使い始めたのである。
ジャーナリストがビートルズとドラッグの関係に気付き始めたころ、ポールはドラッグの使用を認める発言をしたが、これも大変な衝撃となった。当然のように、”良識ある大人たち” は眉をひそめたが、これさえも若者には迎え入れられた。
愛と平和、長髪、ヒゲ、花柄のシャツ、アクセサリー、ドラッグ、そのすべてが戦争反対を叫ぶ若者のシンボルとなり、それはイギリスよりもアメリカに大きな影響をもたらした。つまりベトナムに対する北爆を始めたアメリカの悩める若者たちが、まっ先にビートルズのメッセージを支持したのである。60年代後半のサンフランシスコのフラワー・ムーブメントはこうして火がつき、ヒッピー族を生んだのである。
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by paulkoba | 2006-06-24 15:08 | ビートルズ画

BEATLES FASHION

PART2
サイケデリック・ムーブメント
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マッシュルーム・カットは、ビートルズの大きなトレードマークとなったが、いっぽうでは 「モップヘアー」 とも呼ばれ、大人たちを困惑させたものである。彼らの長い髪は1964年に初めてアメリカの土を踏んだ時にも、空港での記者会見でまっ先に、「アメリカにいる間に髪を切る予定がありますか?」 とジャーナリストに質問されたほどであった。
これに目を付けた業者は、「ビートルズかつら」 の製造を始めるが、最盛期には1日で3万5千個が生産されていたそうである!!そればかりではなく、ビートルズ・スーツ、ビートルズ・ブーツと、”ビートルズ”と名の付いた商品がどんどん発売されていった。日本でも当時のオデオン盤シングルのジャケットの裏側に 「ビートルズ・ジャケット・スラックス」 の広告が載ったほどである。
やがて世界中のティーンエイジャーがビートルズをまねて髪を伸ばすようになり、長髪は若者の特権意識とまでなり、ビートルズはファッションにおいても、世界をリードするに至った。
アルバム 「リボルバー」 のジャケットの裏側には、変形のサングラスをかけたビートルズの姿があるが、本来の意味をなさない丸型の小さなサングラスやジョージの愛用していたやはり小さな長方形のサングラスなど、その後のサイケデリック・サウンドの小道具として、多くのミュージシャンがこぞって使用した。
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また、彼らは1966年ごろからオフステージで派手な花柄のシャツや、ストライプのジャケットなど、当時の男性では気遅れしそうなスタイルも好むようになり、有名なリンゴの指輪好き、メンバーのブレスレットなど、実に多くの点で男性ファッションの世界に変化をもたらした。
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ビートルズ来日以後、日本ではGSブームが起こるが、多くのGSはコスチュームの点でもビートルズを手本にしていると言ってい良い。彼らの存在は音楽の枠を越えたものになった。
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by paulkoba | 2006-06-22 06:18 | ビートルズ画

BEATLES FASHION

PART1
マッシュルーム・カットとえりなしスーツ
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マッシュルーム・カットえりなしスーツ。ビートルズが登場した時のファッションもまた、当時としては大胆でユニークなものであった。ロック・ミュージシャンといえば、エルヴィス・プレスリー以来、リーゼントかクルーカットが相場と決まっていたからである。
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ビートルズも元々はそうしたリーゼントに皮ジャンのテディボーイ・スタイルで、派手なウェスタン・ブーツなどを愛用していたのだが、変化が生じたのは1960年の初のドイツ巡業のことである。当然まだデビュー前であったが、彼らは出演していたカイザーケラーという名のクラブでドイツ人の学生、クラウス・フォアマンアストリッド・キルヒャーなどと知り合う。
やがてビートルズの当時のベーシストであったスチュワート・サトクリフはアストリッドと恋をし、服飾デザインを学んでいたアストリッドは、スチュワートの髪を切り、自分でデザインをした、えりなしジャケットを着せたのである。これがマッシュルーム・カットとえりなしスーツの始まりであるが、メンバーの受けは決して良くなかった。ただ、ジョージだけがすぐにアストリッドに髪を切ってもらい、次いでポールもこれにならった。ジョンは最後にようやく自慢のリーゼントと長いモミアゲを切ったが、ドラマーのピート・ベストはとうとう変わることのないまま、グループを追われることになる。
そしてブライアン・エプスタインがマネージャーとして契約を結ぶと、皮ジャンは一切禁止され、彼らはステージで常にスーツとネクタイの着用を命じられた。
ジョンはその時 「われわれは魂を売った」 と後年述懐しているが、スーツの着用にはかなりの抵抗があったと見られる。しかし、まもなくこうしたビートルズのスタイルは、ロック界でも大流行となっていった。^ ^
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by paulkoba | 2006-06-19 00:39 | ビートルズ画

Happy Birthday PAUL!

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年をとって髪の毛がうすくなってきたとき
これから何年も先のことだけど
君はバレンタインのプレゼントを贈ってくれるのかな
誕生日にはワインでお祝いしてくれるのかな

夜中の3時15分前になっても帰ってこなかったら
君はドアの鍵を閉めてしまうのかな
君はまだ僕のこと必要かな?面倒みてくれるかな?
僕が64才になった時

君と一緒に年をとるんだね
もしその通りだと言ってくれるなら
僕は君と一緒にいられるはずさ

僕はけっこう器用だよ ヒューズを取替えたりね
電気が飛んじゃったときにはね
君は暖炉の前でセーターを編んだり出来るしね
日曜の朝にはドライブに行こうよ
庭の手入れをしたり 雑草を抜いたり
これ以上素敵なことってあるのかな
君はまだ僕のこと必要かな?面倒みてくれるかな?
僕が64才になった時

毎年夏にはコテージを借りようね
ウェイ島に行こうよ、あまり高くなければだけどさ
だから節約して貯金しとかなくちゃね
君のひざの上にはかわいい孫が
ベラとチャックにデイブ

はがきを送ってほしいな
君の思ってること書いてね
ちゃんと詳しく書いといてよ
よろしくとか堅苦しいことはいいからね
君の返事のを待ってます
「永遠に私のものよ」ってうめつくしてね
君はまだ僕のこと必要かな?面倒みてくれるかな?
僕が64才になった時

~ When I'm Sixty-Four ~ (ビートルズ訳詞集より)

アルバム 「サージェント・ペパーズ~」 に、ポールの曲で 、
「ホエン・アイム・64」 という曲があります。
元々はポールがデビュー当時に父親のジムの為に作った曲とされています。
64歳になっても(つまり年を取っても)、
一緒にいてくれるかな?と伴侶に聞いている内容です。
数年前、ポールが64歳になった時、
この曲を再録音してリリースするという話がありましたが、
いよいよ今日、ポールは64歳になりました。

誕生日おめでとう、ポール。^ ^

妻のリンダと死に別れ、再婚したへザーとは離婚の危機にある現在のポール。
この曲の答えは、”NO" になってしまったけど、
まだまだ元気で頑張ってもらいたいな。
paulkoba が64歳になっても、ポールのファンでいますから。^ ^
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PAUL McCARTNEY (ポール・マッカートニー)
1942年6月18日イギリス・リバプール生まれ
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by paulkoba | 2006-06-18 14:31 | ビートルズ画