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ウサギが大好きな、そしてビートルズをこよなく愛するミッドナイト・トラッカー、paulkoba のブログに     ようこそいらっしゃい♪


by paulkoba
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1966年のビートルズ日本武道館公演時のようすを警視庁が撮影していた映像が
存在していることが2014年に明らかになり、
2016年の映画『エイト・デイズ・ア・ウイーク』にそのなかから17秒が使われていた。
しかし、それ以前の2015年に全国市民オンブズマン連絡会議事務局長の
新海聡弁護士(愛知県弁護士会)が「歴史的な資料」として警視庁に
情報公開請求をしていた経緯があった。これを受け、このたびようやく9月25日に警視庁が
「ビートルズのメンバー以外の人物の顔は個人情報に当たる」ので
モザイク処理(エプスタインも含まれる)をすることで可能だとし、
モノクロで無音の35分40秒の映像を開示した。
特筆すべきは7月2日、夜の部、すなわち最終公演の映像が一部含まれていたこと。
サングラスをかけてステージに立ったジョンの姿が映し出されている。
最後の公演が終わってステージを降りる姿も見られる。
そのほか、キャデラックに乗ってお茶目に手を振る姿や、帰りの空港でのようすも貴重。
そしてお別れの涙が止まらない女性ファンや、
パンフやビートルズ・グッズを手に会場を後にするファンのようすなど観ることができる。
この映像は9月25日、YouTubeの全国市民オンブズマン連絡会議のチャンネルで公開された。
https://youtu.be/5BOKobhCk2Y
ビートルズ武道館公演秘蔵映像_c0055348_02270169.jpg

# by paulkoba | 2022-10-09 02:27 | The Beatles News
9月8日、イギリスのエリザベス女王が他界。96歳だった。ビートルズ時代から交流のあるポールが長文のお悔やみコメントを発表した。ポール「エリザベス二世女王陛下のご逝去という悲しい出来事に際し、思い出がよみがえってきましたので、これらを皆さんと共有したいと思います。私はエリザベス二世女王の統治期間中、ずっと生きてこられたことを光栄に思っています。10歳の時、リバプールで行われたエッセイ・コンテストに応募し、英国君主制についてのエッセイで部門賞を受賞しました。私は長い間、女王のファンだったのです。1953年に女王が戴冠したとき、僕が住むリバプールのスピーク地区で誰もがようやくテレビを手に入れ、戴冠式を美しい白黒画面でじっくりと見ることができました。振り返ってみると、女王陛下とは8、9回お会いしていることになり、光栄であると同時に驚きを感じています。彼女は素晴らしいユーモアのセンスと威厳を兼ね備えており、私は毎回感銘を受けていました。お会いしたのは、次のような時です。最初は1965年10月26日、ビートルズがMBEを授与された時でした。私たちは脇に連れて行かれて、正しい礼儀作法を教えられたのを覚えています。女王陛下にどう近づくかとか、女王陛下から話しかけられない限りは話しかけてはいけないと言われました。リバプールの若者4人にとっては「Wow, hey man」という感じでした。次にお会いできたのは1982年12月13日、ロイヤル・アルバート・ホールでのことでした。妻リンダと私が出席した「An Evening for Conservation」というイベントでのことでした。夕方、オーケストラがビートルズの楽曲をオーケストラ用のアレンジで演奏していたこともあって、そのことについて女王陛下とお話したのを覚えています。彼女はまた、フィリップ殿下に私を紹介してくださいました。彼は60年代に私たちに会ったのを覚えているとおっしゃってくださいました!3度目にお会いしたのは、それから10年後のことでした。1996年6月、女王は、ジョージ・ハリスンと僕が通っていた学校の跡地にリバプール・インスティテュート・フォー・パフォーミング・アーツを開設することを快く承諾してくださいました。また、彼女は以前にも寄付をしてくださっており、学校はそれを大変光栄に思っていました。それからちょうど1年後、次の出会いは僕にとってとても誇らしい日でした。 これまでで最高の1日でした。ナイト爵位を授与されることは大変光栄なことで、もちろん断るのは失礼にあたります! その日は春で、空が青かったのを覚えています。私は、リバプールの小さなテラスハウスからずいぶん遠くまで来たものだ!と思ったのを覚えています。次に再会していただけたのは新年紀になってからのことで、それはなんという機会だったことでしょう! 彼女の即位50周年を祝って、僕は彼女の庭でロックをすることになったのです。ショーの終わりに女王陛下がステージ上で拍手喝采を受けているとき、私が「じゃあ、来年もまたおやりになったらどうですか?」と冗談を申し上げたところ、彼女は「私の庭では無理よ!」とおっしゃいました。その後すぐに再会していただけることになったのですが、今度は私の故郷でお会いすることになったのです! 学生時代にジョンと何度も訪れたウォーカー・アート・ギャラリーで絵画展を開催する機会をいただき、非常に光栄でした。女王陛下をギャラリーに案内できたことは、私にとって大変名誉なことでした。それから10年、ナンシーと僕はロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで開催された「セレブレーション・オブ・ザ・アーツ」という特別イベントに出席し、女王陛下とお話しすることができ、いつもながら感激しました。2012年6月4日、女王は即位60周年をお迎えになり、それは様々な意味で特別なものとなりました。私が女王の前で演奏するのは前回以来でしたが、ポールモールを埋め尽くす人々の姿は素晴らしく、その後、他のロイヤル・ファミリーの方々にもお会いすることができました。イギリス人である僕にとって最高の週末でした。」最後の出会いは2018年に訪れました。女王への尊敬と愛、そして彼女の素晴らしいユーモアのセンスから、私がコンパニオン・オブ・オナー勲章を授与されたとき、僕は女王と握手をして身を乗り出し、「こんな風に会うのはもうやめましょう」と言うと、彼女は少しクスクスと笑って式典を続行されました。ちょっと生意気なことを言ったかな、と思いましたが、何といっても女王のことですから、彼女は気にされていなかったと思います。神のご加護を。あなたがいらっしゃらなくなると寂しくなります。― ポールエリザベス女王に神のご加護を。ご家族のみなさまにピース&ラブを。
エリザベス女王崩御ポールのお悔やみ_c0055348_10391281.jpg

# by paulkoba | 2022-09-22 10:39
8月22日、バディ・ホリーのバンド『クリケッツ』のドラマー、
ジェリー・ “JI” ・アリソンが他界した。82歳だった。
バディ・ホリー公式サイトの声明。
「JIは時代の先を行くミュージシャンだった。彼のエネルギー、アイデア、
類まれなる技術がクリケッツとロックンロールを成功に導いたことは間違いありません。
バディがバンドのシンガーソングライターだとよく言われていますが、
JIもまた、永遠の名曲となる多くの曲を書き、影響を与えていました」
アリソンは50年代半ばからホリーとのコラボレーションを開始。
当初、二人はデュオとして活動していたが、1957年、
彼らはベーシストのジョー・B・モールディン、
リズムギタリストのニキ・サリヴァンとともにザ・クリケッツを結成した。
バンドのデビュー・アルバム“THE CHIRPING CRICKETS”は1957年11月にリリースされ、
‘That'll Be The Day’―ホリーとアリソンの共作―はバンド初のヒット曲となり、
全米チャートで1位を記録した。特異だったのは、
当時、ホリーは2つのレコーディング契約―ソロ・アーティストとして、
ザ・クリケッツとして―を結んでいた。アリソンはこの両方に参加し、
.1958年のアルバム“BUDDY HOLLY”に貢献した。ドラマーはアルバム全曲に参加し、
‘Look At Me’と‘Peggy Sue’の2曲では共同作曲も行った。
ホリーは1958年にニューヨークに移ったが、アリソンと他のメンバーは
故郷のテキサス州ラボックに残ることを選んだ。その1年後、ホリーは飛行機事故で亡くなり、
俗に“音楽が死んだ日”と呼ばれる悲劇が起きた。
ホリー亡き後もクリケッツはレコーディングとツアーを続け、
1960年から2005年にかけて合計13枚のスタジオ・アルバムをリリースし、
アリソン1988年のアルバム“T-SHIRT”収録のタイトル曲では、
ポールがプロデュース、ピアノ、バッキング・ボーカルを担当していた。
クリケッツのドラマー他界_c0055348_19244992.jpg

# by paulkoba | 2022-09-04 19:26 | The Beatles News

リンダの兄、他界

8月10日、ポールの義兄(リンダの兄)ジョン・イーストマンが他界した。83歳だった。
死因は膵臓がんだったと、ファミリー法律事務所イーストマン&イーストマンのパートナーである
息子のリー氏はコメントした。ジョン氏とその父親リー氏はアンドリュー・ロイド・ウェバー、
デヴィッド・ボウイ、エルトン・ジョン、テネシー・ウィリアムズや
画家のフランシス・ベーコンの遺産など、長年にわたって多くの大物顧客と仕事をしてきた。
ジョン氏の妹リンダとの関係でポールの代理人を務め、
ビートルズ解散訴訟に大きく関わることとなった。
ジョンが代理人に立てたアラン・クラインとイーストマン親子は対立し、バンド内も不和になり、
1970年に解散した後も、ビートルズを苦しめることになった。クラインのバンドへの支配を解き、
ポールの独立を確保するため、イーストマン氏は、1970年12月31日、
ロンドンでビートルズのパートナーシップ契約を解消するための訴訟を起こした。
余談。その準備の一環として、イーストマン氏は、
義弟にスーツとネクタイで法廷に出ることを提案したが、
ポールは半分だけ応じ、スーツ姿ではあったが、ネクタイはしていなかったという。
イーストマン親子は、ポールの会社となるMPLコミュニケーションズの設立を支援した。
ポールのおくやみ「ジョン(・イーストマン)は偉大な男だった。彼は僕の弁護士として、
ビジネス取引を大いに助けてくれただけでなく、友人としても彼はこの上なく素晴らしい人だった」
リンダの兄、他界_c0055348_19195157.jpg

# by paulkoba | 2022-08-25 19:20 | The Beatles News
昨年11月に公開されたドキュメンタリー、
『ザ・ビートルズ:GET BACK』を監督したピーター・ジャクソンが
新たにビートルズの映画を企画していることが本人より明かされた。
監督いわく、「『ザ・ビートルズ:GET BACK』とはまったく異なるもの」になるとのこと。
「次回作はドキュメンタリーではない」とのことで、ポールとリンゴも参加しているという。
ジャクソン監督は6月にロサンゼルス・タイムズ紙に
『ザ・ビートルズ:GET BACK』制作の経緯を明かし、「当初、アップル社が構想していたのは
映画『エイト・デイズ・ア・ウィーク』に続く作品だった」ことや、
ゲット・バック・セッションの映像を編集しているうちに、
全ての映像をレストアした方がいいと感じたことを明かし、それをアップル社に伝えたところ、
「イエー、賛成するよ」という適当な返事しか返って来なかったことを非難している。監督いわく、
「このドキュメンタリーが支持を集めているのなら、
もっと長尺のバージョンを発表できるのにアップル社はそんなことに興味はない。
彼らは間違っていると思う」またジャクソン監督は、じつは、
『ザ・ビートルズ:GET BACK』のプロジェクトは当事者のインタビューから始まっており、
当時エンジニア兼プロデューサーでもあったグリン・ジョンズにリサーチを行い、
「ビートルズの真の魔法はギターよりもハーモニーにある」
「セッションはよく本に書かれているような重苦しい雰囲気ではなく、笑いの絶えないものだった」
というジョンズの意見が大きかったと語った。
また、同業者でもある映画『レット・イット・ビー』の監督、マイケル・リンゼイ=ホッグを絶賛し、
「僕はマイケルが大好きだ。この映画では彼はストーリーの一部なんだ。
(このドキュメンタリーには)作曲の過程やジョージの脱退など、
たくさんのストーリーがあるけど、マイケルがこの映画を作ろうとするストーリーこそ、
僕が本当に共感できるものだ」とコメントしている。
ピーター・ジャクソンが新たな映画_c0055348_16500513.jpg

# by paulkoba | 2022-08-07 16:51 | The Beatles News